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G14 そごう横浜店 牛鍋 荒井屋 10階 ダイニングパーク横浜 「横浜料理」の老舗

荒井屋初代荒井庄兵衛は板橋周辺の農家に生まれ一念発起して明治28年に劇場が並ぶ庶民の歓楽街、伊勢佐木町に近い曙町に牛鍋屋「荒井屋」を興しました。文明開化の横浜で荒井屋は大衆的人気店となり「開化のお味は路面電車のお値段で」のコピーで知られるようになります。二代目登良吉は関東大震災での店舗焼失を乗り越え、まだ珍しかった電気コンロをいち早く導入したり店内に人口の滝を作ったりで評判となりますが、昭和20年の横浜大空襲で再度店舗は焼失。登良吉は市民の避難誘導中に行方不明となりました。大岡川に飛び込み生き延びた女将の花は焼け野原ですいとん屋として再出発し、シベリアから復員した長男精一が三代目として跡を継ぎ荒井屋は復活。横浜市庁舎やダイヤモンド地下街へも出店しました。四代目一雄はアメリカやホテルオークラや大阪の割烹などアウェーの地での修行を経て横浜に戻り外からの目線を加味した時代性のある事業に発展させましたが平成19年に永眠。以後四代目女将の順子が牛肉を巡る様々な荒波を乗り越えてきました。明治・大正・昭和・平成・令和の激動の125年を経て現在荒井屋は曙町本店ほか市内に3店舗を運営しています。【2021.7月記】

すき焼きの歴史は幕末に始まります。日本では仏教の影響と牛馬が大切な農業労働力であったことで肉食は禁じられていました。しかし文明開化で明治天皇が牛肉を食べ、一般庶民にも牛肉食が解禁・推奨され、関西では「すき焼き」関東では「牛鍋」が流行しました。牛鍋は鹿、猪、馬の肉の紅葉(もみじ)鍋の影響から生まれ、タレは味噌味から砂糖醤油に変わり、ネギ、豆腐、シラタキ等が加わりました。仮名垣魯文の小説『安愚楽鍋』(明治4年)に「士農工商老若男女。賢愚貧富おしなべて、牛鍋食わねば開花不進奴(ひらけぬやつ)」と書かれ、牛鍋は老若男女、富裕層から庶民までを巻き込む最新トレンド料理になりました。しかし関東大震災で関東の牛鍋屋が次々閉店し、代わって関西のすき焼き屋が関東へ進出。関西の「すき焼き」と関東の「牛鍋」が合体、割りしたを使う「関東風すき焼き」へと進化しました。「すき焼き」は世界的に有名な料理となり、昭和の名曲、坂本九の「上を向いて歩こう」には「Sukiyaki」という英語風タイトルが付けられ、米ビルボードチャート1位を獲得した唯一の日本語の歌になりました。(1位になった英語以外の歌は他にイタリア語の「ボラーレ」、フランス語の「ドミニク」、スペイン語の「ラ・バンバ」の3曲だけ)。関東風すき焼きはみりん・醤油・酒・砂糖などを調合して作ったタレ(割りした)で肉と野菜を同時に煮るのに対し関西風ではまず肉を焼き、砂糖と醤油で味を調え、その後野菜を入れます。溶き卵をつけるのは共通です。

京料理、沖縄料理という名前はあっても「横浜料理」という名前はあまり聞きません。これは「英国料理」と同じで、ビーフステーキやベーコンエッグ等世界中で最も食べられている料理が実は英国料理だったりします。横浜は、すき焼き(牛鍋)だけでなく、ハム、食パン、ビール、焼売、ショートケーキ、アイスクリーム、スパゲティナポリタン、ドリア、プリンアラモードなど、今では広く日本中で日常化した外国由来の多くの食を発信してきました。戦国時代以後、いつの時代も先鋒を務める者は激動に晒される分、大変な名誉と誇りを持ちます。それは今の横浜人にも脈々と受け継がれている精神です。荒井屋のメニューには生悦住喜由氏の版画で横浜の港、牛鍋屋が描かれています。

いまでは関東でも「すきやき」の名称が一般化した「牛鍋」ですが、荒井屋はこの古くからの名称を使っています。今や横浜には3軒しか残っていない文明開化期から続く老舗として、荒井屋は今も家族や親しい友人と賑やかに囲む料理としての牛鍋を大切にしています。親しい人たちとの会食が難しい時代となり、銘々で食べるメニューが増えていく中にあっても百貨店レストラン街、中でもそごう横浜店にとって、安心・安全環境を一層高める社会の要請を受けながらも、人々の心をつなぐ会食メニューは最重要メニューです。醤油・日本酒・みりん・砂糖だけという家庭でもそれなりに作れそうな割りしたと具材で作るすき焼きは「すきに焼く」が語源とも言われ、家庭料理としても一般的ですが、荒井屋の深みのある牛鍋の味はなかなか再現できません。

清潔感溢れるモダンで日本的な店内にはホール席のほかに8人(14人に拡張可能)さま用個室、4人さま用個室の他、小上がり個室が2つあります。ご家族の会食などにぴったりです。

店内には三代目の時代に収集されたという文明開化期の錦絵が並びます。西洋人の横浜での宴会の様子や横浜の英国商館など、この時代の錦絵は作られた期間が短かったため現在はほとんど市場には出てこない希少品です。また当時の横浜の地図は、現在とほとんど変わらない横浜の町割りが描かれています。中央の広場は現在の横浜スタジアム、今も健在な横浜馬車道もこのころから整備されており、掘割で区切られた区画の内側が横浜の関内と呼ばれたエリアです。このエリアは今も文明開化時代の名残りを伝えています。

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そごう横浜店の各売場に見られる
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